昭和49年09月26日 朝の御理解



  御理解 第31節
 「信心する者は、木の切り株に腰を下ろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれよ。」
                                                                                 自分の都合の良い事自分が便利をする事に対しては、お礼の心が言えるのですけれども、それと反対の事になって参りますとお礼所か不平であり不足であり、それでは信心のある者もない者も同んなじです。信心する者はとはっきり教えられておられます様に信心する者は言うなら一切の者に、感謝の心を持たなければならないという御教えなのです。だから信心する者とない者が親のある子とない子ほどの違いと云う所をです。
 信心する者と信心しない者の違いを、信心のない人達は不平で、不足で受けたり思うたりしておる所を、信心さして頂く者は、お礼の心持ちが育って来なければです。いかに親のある子とない子程の違いと言われても、その違いを感じ切れません。信心して頂いておると云う事の有難さが解りません。木の切り株に腰を下ろしても、まあ世の中では邪魔になる様な物でしょう。
 木の切り株と云う物は、いわば役に立たない物ですけれども、その役に立たないとか、邪魔になる様な物に対してでも、そこにかけて立つ時には礼を言う心持ちにならなければいかん。それが信心者の言うならば、心持ちであらなければならないと同時に、心掛けでなからなければならない。そういう心持ちが生れて来ればね、誰だって有り難う御座いますと言えれるんだけど、心持ちが出て来ない場合がある。
 むしろ嫌な感じとか困ったとかと言う様な心しか 湧かない場合がある。そこでそういう時はです。礼を言う心持ちを現わさなければいけない。日頃御教えを頂いとって、実は此の事に対してでも、お礼を言うのが本当なんだけれども、言わなければならんのだけれども、お礼心と云う物が出て来ない。そこでそこを詫びるとか、又はそれを修行と思うてと言う様な事になって来なければならん。心持ちが生れて来ない。
 礼を言う心持ち。大体は礼を言う心持ちになるのが本当なんだけれども、そういう心持ちになれない時には、そういうお詫びであり、又は修行とそれを思い心得さしてもらうと、言う様な生き方が身に付いて来なければいけない。それにはまずね、私共が分かっておらなければならない事は、この世の中に言うならば無駄な事はないと云う物、この世にあるもの一切は神様の御心であり、神様の愛の心であると云う事である。神様の言うなら絶対愛の、それが現われであると云う事をです。
 あらゆる角度から勉強しとかなければいけん。例えば病気なら病気と云う事であっても、まあいろんな難儀というあらゆる難儀。そこで段々信心が分かって来ると、その難儀様のおかげで、いやこの病気のおかげで、信心が出来ますと云う事になって来る。それが言えれる、思えれる時に、言うならば私は本当の信者じゃと云う事になると思う。あれもおかげであった。これもおかげであったと分かる様になると、本当の信者じゃと教えておられます。そこでいうならあらゆる、例えば難儀なら難儀を感ずるとき。
 愈々感ずれば感ずる程信心する者は、神様へ打ち向かう事になる。この難儀のおかげで朝参りが出来ます。この難儀のおかげでこんな修行が出来ます。と私はお礼を言う心こそ木の切り株に腰を下ろして、立つ時には礼を言う心持ちだと思います。してみると様々の難儀という難儀の、その様相と云う物は、様々に現われて来るのですけれども、それが神の心であり、神愛であると分からせてもらう時に、初めて礼を言う心持ちが生れて来る。所が実際問題としては、中々礼が言えない。
 そこで本当は礼を言うのが本当なのだけれども、信心未熟のために礼を言う心が、生れて来ないから、お詫びをしなければいけない。又はそれを修行と心得さしてもらわなければならない事になりますよね。そしてね私共の日々がです。私共の生涯がそういう一切が有難い。一切が合掌し得る事の中に、私共が住わせて頂くというのがおかげ。まあそれを本当の意味で極楽というのではないでしょうか。
 真にお礼が言えれると言う心。必ずしも立派なお家に住んだり、立派なものを身に付けたり、山海の珍味を頂くと言う事だけが極楽ではない。そこに不平があり不足があるなら、もうそれは極楽ではない。昨日は丁度婦人部の研修会でした。もう沢山集まられ研修室一杯でした。でまぁちょうどその始まるちょっと前にお参りして来た方が、御縁という物はもう本当に不思議なものです。
 まあだ合楽に三、四回くらいお参りになったでしょうか。ある大変難儀な本当に難儀な問題で、もう本当に人間どうしようもないという難儀がありますよね。もうその為に夜も日も眠られない様な、それこそどうする事も出来ないその時に、フッと三年前にです。ここの事を聞いておった事を思い出された。それがもう十日くらい前だったでしょうか。金光教と云う事すらも知らなかった。確かに金の光の教と書いちゃったから。
 金光教(かねみつきょう)やろうと、電話がかかって来た。丁度私が留守でしたから西岡先生がそれを受けられて、「はい。(かねみつきょう)ではなく、金光教(こんこうきょう)です。」「金光教(こんこうきょう)ですか。お宅では人の悩みやら、難儀やらを救うて下さると云う事を聞いたんですが。それが本当に出来なさるでしょうか。」という電話であった。金光教は確かに人の難儀、悩みを救い助ける道ですから、お出掛け下さいというので見えられた。
 そして私が帰るのを待っておられました。話を聞けば聞く程にもう本当にそうでもあろう。いわゆる人間関係なのです。昨日四回目でしたかね。お参りされた時に一人の方を導いて、連れてお参りになっとられました。それがその時に言うておられた。本当にその人をです。呪い殺せるものならば、呪い殺してしまいたいと思うておった相手じゃった。ここでお話を頂いて心が少し開け出して、そして話を聞かせて頂く。
 丁度参ってみえた時に、善導寺の原さんがお参りしておられて「あなん久留米の花畑からお参りになるならば、花畑からね古賀さんという方達が、ご夫婦で毎朝ご祈念にお参りになるから、あちらまで行かれれば、おかげ便乗させてもらえますよ。」と言われたのでそうしたいと思いながらも、中々古賀さんの所においでられなかった。翌日古賀さんにその事を申しました。それで古賀さんの奥さんが、それこそ示現活動を思うて、その方の家に行かれた。で翌日も自分の車に便乗されてお参りされた。
 そして古賀さんの家に行かれたり、聞かれたりしながら、奥さんの話を聞かせて頂きながら、ついこの頃火事に遭われて全焼された。という話を聞いてです。金光様の信心ちゃ、素晴らしい信心だと感じたと。もう是ほど信心しとるのに、それこそ丸焼けになってしもうて、神様も仏様もあるもんかと、普通の者なら思うちゅうです。それに例えばあんまり信心ではなかった。あちらの奥さんの話を聞いてとてもよう出来ちょる。信心があれしこ出来るならと思うとった。
 所がいやいやそうじゃないです。御主人は熱心に参って来よったけれども、奥様は時たましか参って来んくらいでしたけれども、あの火事を境に火事からこちら、ああいう熱心に信心が出来る様になりましたという話をしたものですから愈々たまがった。世の中の難儀といえば、本当に難儀ですよね。言わば火事に遭うと云う事。しかも丸焼けに焼け出されておってです。それから信心がかえって強うなったと言う。信心のいうならば教えと云う物の素晴らしい事にです。
 まあ言うならば開眼された訳です。そしてなら自分が人間関係の上にそれこそ怨み殺し呪い殺し例えばすべがあるなら、呪い殺してもしたいと云う程しに、思うておった人の事を、今度は反対に思える様になった。その人の立場になって考える様になった。そして話をして見た所があまりにも自分の境遇とよく似ておったので、愈々同情しなければおられん様になって来た。言うならその人の心の中に神心が湧いて来た。
 そして私もあなたも一緒に助かりましょうと云う事になって来た。昨日はそれでした。私はお話を聞きましたら素晴らしいと思うた。それこそ火事で丸焼けに焼け出されておりながら、かえって信心が強うなって行かれておる。古賀さん達を見たり聞いたり実際にしてです、立派なお家が出来ておる。そのあとにそれを聞かれて実際に見られてです。今までそれこそ呪い殺しでもしたい程しの思いの人と、話し合いが出来て話をすればすれ程に、気の毒人である事が分かって。
 自分の境遇とあまりに似ておるので、私も初めてどうにもこうにも出来ない。三年前にちょっと聞いておった合楽の金光様の事を、いや金光様とも知らなかった私がです。もう苦し紛れに電話をかけて、人間の悩み苦しみを助けて貰える所ですかと聞いたら、それがお道の信心ですと聞いてです。お参りをして先生がおられなかったから、その間待たせて頂いてから話を聞いた。そこからですこれは私も助かられるという。まあ言うならば心の中に望みが湧いてきた。
 その間何日かの間ですけれども、おかげを受けられた訳。その時に実は金銭にどうにも出来ないお繰り合せ頂かなければならない。けども当てもないと言う様な事がです。その翌日か翌々日か、もう不思議な不思議な事からおかげを頂いた。第一私のこの心がね、もう自分で浅ましいまでに思うておって、恨み呪い殺そうごたる。相手の人の事がです。そういう気持ちがサラッと、とれた事に不思議で不思議で堪らんと。自分で。
 そしてその人も一緒にお導きをして、一緒に助かろうと云う事に成って来た。そういう昨日、私は取り次ぎして頂いて、その人のおかげでそれこそ、夜も日も眠られん程しの胸の悩み苦しみと云う物のおかげで、信心がその事に対して、ならお礼が言えておられるので、昨日のその方の姿です。素晴らしいでしょう。金光様の信心とはね、そういう素晴らしいあり方にならせて頂かなければいけんのです。おかげで信心が出来ますと言うた。立つ時に礼を言わん訳にはいけんのです。
 昨日研修会の最後に、文男さんが発表しておりました。皆さんの合楽で今度古米を皆さん分けてもろうて、それのおかげ話を三人の方がされました。北野の秋山さんそれから、久留米の佐田さん。それから福岡の戎浦さんですか。もうとにかく、合楽の神様にお供えさして頂いた。それは何年前と言った様な古いお米で、普通から言やあ古米の美味しくないのが普通だけれども、そのお米が大変美味しく頂けるとか、又それが奇跡というより、他にない程しに増えるとか、息子がこんな米は食べられんと言うておった。
 言うておるのを聞いてです。これは何程古米、古米で美味しくないと言えば美味しくないのだけれども、親先生もこの米を召し上がっとるとよと、又このお米でです人の命すら助かる程しのお米だよと。あんたがこげな御飯を食べんと言うなら、こげな弁当は持っていかんと言うならば、新に炊いてやろうけれども、思い方を変えないといけないというて、お母さんが子供に言うて聞かせた。
 明くる朝やっぱり同じ米で炊いた。今日とは米が違うたとじゃろう。とても美味しいと息子が言うたいいやじゃばい、昨日と同じ合楽のお米と言うた。本当にお下がりちゃ大した事の、という話を秋山さんがなさっておられました。問題はその頂心と云う事です。だからこれは古米だ。美味しくない砕けがあったり虫が付いたりしておる。ここまでは信心のある者もない者も同なーし事なのです。
 けれどもこれは神様のお下がりだと云う所から、信心のある者今日の御理解で言うたらば、信心する者はと云う事になるのです。信心する者はそれを押し頂く心。どうしたならば合楽のお下がりを頂く事が出来ようか。本当に勿体ないと言うて頂いた人の上には、もうそれこそ奇跡と思わにゃおられない程しのおかげになっておると云う事である。文男さんもやっぱり頂いて行ったけれどもまずかった。けれども矢張り私はそのまずいお米を頂く時にです。それを修行と思うて、頂けと言うたと言う話をしてましたですね。
 昨日。ある人はあげな米は食べられんと言うて、ほったらかした人もあった。今日の御理解、『木の切り株に腰を下ろしてもです。立つ時には礼を言う心持ち』と云う物が三人の方達の場合は出来とる。昨日発表した方達の場合には出来とったからこそです。そう言う返って美味しいとかもうとにかくたまがる様に増えるとか、只奇跡と思わなければおれない。そこに現象が現われておる言わばそれを現わすのは信心する者でなければ、出来る事じゃない。日頃教えを頂いとかなければ出来る事じゃない事が分かった。
 所が実際問題としてそこまで言うならば礼を言う心持ちと云う物が生れて来ない。成程これはまずいなぁとこう思うた。だから文男さんの場合は、それをこんなもの食べられんと言わずに、それを修行と思うて頂こう。頂けと家族の者にも言うたと言うのである。それは礼を言う心持ちの方が素晴らしい。心持ちが出ない時には、先程から申します様にそれを修行と思うて、とか又は是はお礼を申し上げるのが本当なのだけれども、お礼の心が湧いて来ないならば実感として、そんならばそれに対してです。
 湧かないお詫びをさしてもらうと、云う事が本当だと云う事が分かります。それこそ丸焼けに焼け出されて、古賀さんがその事に対しておかげで夫婦が、此の様に揃うて信心が出来ますと、お礼を言う心持ちが生れて来たと云う事は素晴らしい。それこそ相手を呪い殺そうごたるその心持ちをです。その相手の人が可愛ゆうなって来た。もう正しく神心である。そして共に私もあなたも助かりましょうやと言うて、一緒にお導きして来た。そしてその方の場合なんか。
 昨日話して聞かせて頂いたら、相手のその方がもう大変難儀な病気を持っちゃる。血が出したら止まらないという病気。医者もどうにも現代医学では、どうにも出来ないと言う。本当に今日は、お導きを頂いて、有難かったならこういう健康、体の上にもお願いさして頂いてから、おかげを頂いたと言うて、まあー昨日帰られました様にですね、そういう働きになって来るです。素晴らしい示現活動ですね。
 本当に神様の不思議な働きを現わしなさると云う事が、示現という言葉の意味だと云う事で御座いますけれども、正しく神様が仏様が、それこそ不思議な働きをそこに現わして下さる。そういう働きを受けていけれるという信心なんです。ただ信心はせずしておいて、信心は頂かずしておいて、ただおかげだけが頂きたいという信心には、そういう自分の都合の良い事にはお礼を言う心地があろうけれども、自分の都合の悪い事やら、便利にならない事は、返って困って、向こうに押しやってしまう。
 こんなもんは要らんと言う様な事では、信心のある者もない者も同じ事になる。信心する者はと教えてある。木の切り株といえば、何にも言うなら役に立たんところか、邪魔になる様な物に対してでもです。それを使うたならば、礼を言う心持ちと、云う物がいるんだ。こういう難儀な問題は、もう真っ平と云う様な事であっても、その事のおかげで、信心が出来るとするならば、やはり、それにもお礼を申し上げねばならない。そこで初めてです一切が神愛。
 一切が神様の氏子可愛いという御思いの現われであると云う事が分かって参りまして、全ての事にお礼が言えれる。全ての事に感謝の生活ができれる。そういう心持ちが、いよいよ出来て来る。そういうおかげを頂きたい。けれども、解っちゃ居るけどお礼が言えない。解ってはおるけれども、矢張り苦しい事は苦しい。時には、その苦しい修行をさして頂いとると思いなさい。お礼を言う心持ちが出来なければ、本当は嘘なんだけれども、出来んならば、神様あいすみませんとお詫びしていけと云う事ですね。
   どうぞ。